ISタイムトラベル130 NO.2

アイ・エス・ガステムは2015年、創業130周年を迎えます。
このコーナーでは、当社の歴史を人々の暮らしの変遷や歴史のトピックと一緒に連載でたどっていきます。

関東大震災での危機を信用で乗り切る

 1884年(明治17年)に石井巳之助(みのすけ)が米の小売店として創業した石井商店は、その後、当時の家庭用燃料の主力である薪炭(丸太を切りそろえて適当な太さに割った「まき」と、蒸し焼きにした「炭」)を取り扱います。薪炭の商売は小売りではなく、卸売りが主体でした。巳之助は良質の薪炭を全国の生産者から買い集め、東京を中心とした燃料の小売店に販売し、事業は大きく拡大しました。
 ところが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により、巳之助は店、家屋敷、在庫の米や燃料の一切を失いました。石井商店の最初の危機でした。しかし、堅実な性格と信用で、全国の生産者・荷主が応援してくれて商売の再開が果たせたそうです。

法律を守るためにあえて休業する

 2代目の石井信吉の代になると、日本は戦争の時代に突入します。戦争中はモノ不足で、最近のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」や「花子とアン」でも描かれていたように、庶民の暮らしは大変でしたが、商人にも苦労がありました。食料や燃料は国の統制で販売価格が決められてしまい、仕入れ値より安く売らねばならないなど、商売が成り立たなくなったのです。当然、統制価格を守らない「闇」物資が出回ります。
 父・巳之助譲りのまじめな性格の信吉は「法律を守るためには商売を休むしかない」と、休業を決意します。

関東大震災ですべてが灰に

 石井商店の一度目の大きな危機であった関東大震災について、二代目・石井信吉の長男・石井信一氏(北海道大学名誉教授)の記述から、もう少し詳しく見てみましょう。

 大正十二年九月一日正午近くに起きたこの震災の状況を、その三年半後に生まれた信一は母から何度も聞かされて、まるで実体験のように記憶している。
 石井商店は当時竪川(墨田区および江東区を流れる人口河川。現在はその上を首都高速七号小松川線が走っている)の河畔、二之橋脇にあった。
 そのころ信吉は、千葉県市川市菅野に購入したばかりの土地に、引退した初代店主巳之助・かね夫婦の隠居所を計画しており、この日はその建物設計図を検討中だったという。突然の大揺れに驚いて外の様子を見ると、あちこちに火が上がっている。急いで竪川に浮かべていた持ち船に家財道具を投げ込ませ、従業員も含む一同船での逃避行となった。
 その頃の物流の主役は水運である。薪炭、米、木材など嵩張る荷を扱う問屋は隅田川から派生する幾つもの運河に沿って店舗を構えていたという。竪川沿いの石井商店もその一つである。処が大火事の時に問屋の旦那衆が考えることは皆同じ。見る見るうちに竪川は荷物満載の船の群れで渋滞し動きが取れなくなる。どうしたものかと思案しているうちに陸の火災が船の積み荷に飛び火して、川の上でも大火災。とても狭い船の中にいるわけに行かない。かねの実父石井伝右衛門など先祖の位牌のほか必要最小限の荷物だけを身に付けて上陸することとなった。
 次の避難先にと選んだ所は、広い空地をもつ陸軍の被服廠跡地である。しかし、火に追われながらようやく辿り着いたこの目的地はすでに満杯で、鼠一匹入り込む余地など残っていない。やはり人間考えることは皆同じ。竪川で時間を空費して後れを取ったのが不運の始まり。仕方ない、少し離れているけれど清澄公園にまで行こうと気を取り直し、南に向かって歩き続けた。
 後での話だが、この時被服廠に入れなかったのは、不運どころか大変な幸運だった。立錐の余地なく詰め込まれた人々の担ぐ家財道具に周囲から火が燃え移り、被服廠に逃げ込んだ殆ど全員約三万八千人がここで焼け死んだのである。
 命からがら到着した清澄公園にも劫火は迫り、樹木が燃え始めていた。みんな池に飛び込む。それでも熱がる子供や女性たちの顔を冷やすため、男どもは水をかけ続けた。何とか火のおさまった翌朝、一同は巳之吉の出身地である市川市曽谷をめざすこととなったが、熱火に顔をさらし放題だった男連中は俄か失明の状態で、女性たちに手を取られながらの道行き行列だったという。
 竪川の倉庫に積んであった薪炭は家々の鎮火後も高熱を発し続けたが、何とか後片付けが出来るようになるとすぐさま掘立小屋の店舗を作り、商売を再開したらしい。やがて本建築の店や倉庫も再建できた頃には菅野の隠居所も計画通りに完成。巳之助・かね夫婦がまず移り住んだ。その後この家は増築され、家族一同そこに住居を定めた。それは昭和五年のことである。店の方は本所に残し、信吉は菅野から京成電車で通勤していた。

市川への店舗移転

 以上のように、震災後、一家は市川に居を移します。そして、信吉はある決断をします。信一氏は以下のように書いています。

 東京本所での仕事帰り、江戸川越えの車窓から吹き込む風の美味しさを感じる度に、信吉は考えた。今や物流の主役は水運から鉄道に移った。問屋が運河沿いの本所にしがみつく必然性は全くない。市川は住みよい。菅野には十分な土地を確保してある。周りは広い庭を構えたお屋敷や広大な原っぱばかり。火災におびえる心配もない。近いうちに市川町と八幡町が合併して市になるらしいし、八幡には省線(JR)の駅開設の計画もあるという。今後の発展間違いなし。店を菅野に移そう。(注・昭和八年信一が八幡小学校に入学、昭和九年市川市設立、昭和十年総武線本八幡駅開業)
 熟慮を重ねた上での決断である。直ちに店舗倉庫の実現に向けて着工の運びとなった。倉庫の建築が始まった頃、ご近所さんが「何を建てているのですか」とお聞きになるので、小学校ですよと答えたらすぐ納得して下さった。と語る母幸子のいたずらっぽい顔が今も目に浮かぶ。 倉庫敷地の南東隅には牛舎を置いた。当時重い荷の運送は馬車の役目というのが常識だったが、信吉の考えは違った。馬車は確かに早い。牛は鈍重だが、より重い荷を運べるから輸送力としては同じ。馬は気性が荒く、人を傷つける危険性が牛より高い。安全を第一とした選択である。加えて、牛を購入する時、信吉は角の先が内側に向ってまがっていることにも神経を使った。万一人が突かれても危なくないようにとの配慮である。信吉は「石橋を叩いて渡らない人」とよく言われたが、それは二重三重に安全を考える処を指した評価であって、重要な局面での高い決断力は店舗移転決定後も随時発揮される。
 石井商店の経営は掛け値なし現金取引主義であって、定期的に商品別最新定価表を黄色地のガリ版で発行していた。毎号目立つところに薄利多売の標語を刷り込んだ。夕方になると、その日集まった沢山の貨幣を、専用の道具を使って、種類別に特製の和紙バンドで一定枚数ずつ束ねていた、母幸子や一番上の姉久子の姿が思い出される。現金取引だからこその仕事である。なお久子は昭和十年に府立第一女学校を卒業した後家業を手伝っていた。

配給米と闇米

 このように市川での事業は順調に発展しましたが、やがて日本は戦争の時代となります。この時代のことを知るためには、まず、統制経済の象徴である「配給米と闇米」について知っておく必要があります。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発の年から戦後にかけて、米や燃料などの生活必需品は国が統制しました。米は「米穀通帳」で家族構成等に応じて一定の配給を受けました。これが「配給米」です。1941年(昭和16年)当時の米の配給量は1人1日当たり2合3勺(330g)。それまでの平均は1人当たり3合(430g)でしたから、4分の1も減らされています。また、配給米は質もあまりよくありませんでした。
 そこで人々は農家に買い出しに行ったり、配給以外の米を買うなどしました。これが「闇米」です。当然値段は高価で、衣類などとの物々交換で手に入れることもありました。
 戦後、食糧事情が落ち着く昭和20年代後半には配給米は実質的にはなくなります。しかし制度としては米穀通帳廃止まで存在するので、国が管理する米以外は依然として「闇米」、昭和30年代以降は「自由米」などと言い方が変わりました。さらに「自主流通米」という言葉が生まれ、そして食糧管理制度が廃止されます。
 統制経済が最も厳しかった戦中から終戦直後の様子を物語るエピソードとして、「闇米を断った裁判官」の話が有名です。
 闇米の購入や販売など、経済統制の法令違反に対しては、警察は厳しい取り締まりを行いました。せっかく手に入れた食糧も、警察は容赦なく没収しました。1942年(昭和22年)には、法律を頑なに守り、配給の食料だけしか食べなかった裁判官・山口良忠氏が栄養失調で死去したことがニュースになりました。それほど、食糧の統制は実態に合っていなかったわけです。

統制経済を嫌って廃業

 日々厳しさを増す経済統制下で、休業を決意せざるを得なくなりました。第二の危機です。そこに至る信吉の心情について、信一氏は以下のように書いています。

 信吉は先見性を重んじる人でもあった。食事中煮つけの蓮根を箸で鼻先に掲げながら、これをうんと食べれば先の見通しに強くなるぞ、と我々子供たちを諭すのが常であった。その信吉も、店を閉じざるを得なくなる将来がすぐ先に待ち受けていることまでは見通せなかった。  すでに昭和六年に満洲事変が起こっていた。昭和十二年の盧溝橋事件によって戦火は一気に中国大陸奥地にまで広がる。翌年には国家総動員法が公布されて、総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるということになった。
 このような情勢ではまっとうな商売が出来ない。うま味のある裏取引をしないかという闇のさそいに乗ることなど真っ平御免。戦局の方はますます厳しさをます。ここでも信吉は熟慮を重ねた。その結論が廃業である。
 信吉は熱心な仏教徒であると共に読書家であって、国訳大蔵経や四書五経の解説付き叢書など多くの書物を所蔵していた。廃業しても、かえって読書の時間が潤沢になり、人生をより豊かに過ごせると考え、潔くこの結論をだしたのであろう。
 新たに菅野二丁目十番地の土地を求め、解体した倉庫の材木を活用するなどして、ここにかなり高級感のある貸家を八軒建てた(信吉自身が各戸個別の設計を行う)。そこからの賃貸料で一家の生計を立てることとなる。太平洋戦争勃発の翌年、昭和十七年に(市川学園)市川中学校を卒業した次男誠が、倉庫の跡地を耕し苦労して育てた薩摩芋、南瓜などの作物や養鶏の産物によって、食糧難に悩む家族が大変援けられたことも忘れられない。

 このように、戦局の悪化とともに食糧事情も悪くなりつつあるなか、石井商店は自ら廃業し、一家は貸家の家賃収入などで暮らしたのです。
 市川の住まいの隣の屋敷は千葉県で最初に電話の入った家として有名でしたが、戦時中から終戦直後の頃の入居者は、後に最高裁の判事になった方の家庭でした。司法省関係者であったため、食糧難の時代も、立場上、闇の物には手を出せずにいました。日に日に痩せて行くその家族を見かね、誠たちは自分たちが作った野菜を分けてあげたというエピソードもあります。

ベイコク通帳って知ってる?
年配の方はご存知ですよね。第二次世界大戦中の食糧管理制度下で、お米の配給を受けるために1942年(昭和17年)4月から発行されたのが「米穀配給通帳(べいこくはいきゅうつうちょう)」です。戦後、配給制がなくなった後も、食糧管理法が改正される1981年(昭和56年)まで存在しました。お米屋さんでお米を買うには、法律上はこの通帳が必要だったのです。
 この米穀通帳は、市町村長の公印が捺された公文書である上、世帯主・住所が記述されていたので、今の保険証や運転免許証のように、身分証としての役目も果たしていました。

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