ISタイムトラベル130 NO.3

アイ・エス・ガステムは2015年、創業130周年を迎えます。
このコーナーでは、当社の歴史を人々の暮らしの変遷や歴史のトピックと一緒に連載でたどっていきます。

食糧難時代に農業をした3代目

 太平洋戦争中の統制経済の中で自ら廃業の道を選んだ石井商店・2代目の石井信吉は、千葉・市川の地で貸家の家賃収入などで暮らしていました。戦局の悪化で、食糧事情は日に日に悪化していきます。そのような中で、信吉の次男、後に石井商店の3代目となる誠は、畑を作ったり鶏を何百羽も飼い始めます。当時、地元に新設されたばかりの市川中学(現・市川学園)に進学していた誠でしたが、学校は軍事教練や勤労動員という工場などの手伝いばかり。その合間を縫っての農作業で、食糧難に喘ぐ家族や縁者を助けたのでした。
 戦争末期、東京は空襲で焼け野原となりますが、市川の石井家周辺の被害は比較的軽微で、家も焼かれずに済みました。

敗戦後の再起。復興とともに発展

 1945年(昭和20年)8月15日、長い戦争が終わります。復興に向けて経済活動が再開される中、信吉も商売の再開を決意します。兵士となったり地方に疎開したりしていた従業員たちも帰ってきます。しかし、信吉は後継者を心配していました。
 信吉には7人の子供がいました。長男は府立一中から一高、そして戦後は東大へと進み学究の徒となる(後に北海道大学名誉教授となる石井信一)など、戦時中の廃業もあって、みな商売を継ぐという意識はありませんでした。そこで、次男の誠が父の商売=燃料業を手伝うこととなります。「みんなが学者や先生になったら、誰が商売を守るんだ」。そう思った誠は、進学せず商売の道に進むことを決意しました。

太平洋戦争と市川

●太平洋戦争
 1945年(昭和20年)8月15日の終戦記念日から70年を経て、戦争の記憶が薄らいでいます。「太平洋戦争って、何?」という若者のために、ここでおさらい。太平洋戦争は日本・ドイツ・イタリアなど「枢軸国」と、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの連合国が世界各地で戦った第二次世界大戦のうち、太平洋を主戦場に行われた戦争を指します。日本側では1937年(昭和12年)から中国との間で始まった一連の戦争を含めて「大東亜戦争」と呼んでいましたが、戦後、占領軍(GHQ)によって「太平洋戦争」という呼び名に統一されました。

●市川の空襲
 千葉県・市川の上空はアメリカ軍の東京への空襲時の飛行経路で、そのあおりを受ける形で、爆弾や焼夷弾が投下されました。東京空襲の際に爆撃目標が外れたものや、帰路の飛行機が機体を軽くするために落とし残しを投下したものなどで被害を受けたのです。記録によれば、市川市内は少なくとも13回の空襲被害を受けています。
 市川市内で最大の空襲被害は、1945年(昭和20年)2月25日午後2時30分頃から3時頃まで行なわれた空襲とされています。最も被害が大きかったのが、市街地の市川新田地域と中山法華経寺門前で、約70戸の家屋が全焼しました。
(資料・市立市川歴史博物館資料、『千葉県警察史』など)

●市川の軍事施設
 市川には陸軍の第2砲兵隊と複数の野砲兵連隊がおかれていました。国府台(こうのだい)には高射第一師団が置かれ、高射砲陣地も置かれていました。国府台には1885年(明治18年)に陸軍の兵士養成機関である陸軍教導団が設置されて以来、敗戦時まで軍施設が置かれていました。
 敗戦後、戦前より進められていた都市計画の実現に向け、復興が始まりました。国府台の軍隊跡地には東京から大学が移転し、文教地域という新たな側面をもつこととなったのです。

焼夷弾と東京大空襲
日本本土への爆撃を始めたアメリカ軍は、焼夷弾を投下しました。焼夷弾とは発火性の薬剤が詰まった爆弾です。「紙と木でできている」と言われた日本の住宅を焼き払うことが目的でした。東京への空襲は1944年(昭和19年)11月14日以降106回に上りました。なかでも翌年3月10日の大空襲では10万人以上が死傷し、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大と言われています。当日、東京・赤羽にいた石井信一は、「東京の下町が焼け野原になった」と聞き、翌日、まる1日かけて徒歩で市川に戻りました。幸い、市川の被害は少なく安堵したと回想しています。市川は東京への空襲の飛行コースで、それまでも何度か爆弾が投下されていました。しかし、戦争末期のアメリカ軍は、東京に的を絞った精度の高い攻撃を開始していたため、無差別爆撃を受けずに済んだようです。

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